原付だから多くの人に愛された。スーパーカブ50の歴史を辿ってみる〈PR〉
Hondaが大きく飛躍するきっかけとなったのが、1958年に登場したスーパーカブC100でした。
独創性と技術力でそれまでにない実用性と高性能を実現。シリーズ合計1億台以上が生産され、世界中で愛されることになりました。
現在スーパーカブには50から125まで様々な排気量がありますが、中心になっていたのは50ccでした。
そこで今回はスーパーカブの中でも50ccにフォーカスし、どのような進化を遂げてきたのかを紹介したいと思います。
スーパーカブはどんな時代に生まれたのか
写真提供:東京都
最初にスーパーカブが誕生した1950年代の日本がどのような時代だったのか、簡単に説明しておくことにしましょう。
この写真は1952年の東京 日本橋の様子です。
1945年に第二次世界大戦が終了し、日本は復興への道を歩みだすことになります。
焼け野原となった日本ですが、そこからの回復は目覚ましく、10年後の1955年には高度成長期に突入。実質経済成長率が10%を超えるまでになり、二輪車、四輪車の重要性も高まっていきます。
Hondaは終戦の翌年に現在の前身となる本田技術研究所を浜松に設立。
1950年に東京進出を果たしています。
人々の生活を支える二輪車という着想
Hondaが1952年に発売したのがカブF号でした。
自転車に空冷2ストローク単気筒エンジンを搭載したカブF号は、通販で日本中の自転車店に販売網を広げるという方式を採用したこともあって、好調な売れ行きを記録します。
それから数年後、創業者の本田宗一郎はヨーロッパを視察して、モペットやスクーターが生活に密着していることを知り、小排気量の二輪車の重要性を再認識します。
日本でも人々の生活を支える二輪車が必要だと強く感じましたが、同じようなものを作ろうとは考えませんでした。
舗装率が低くて荒れていた当時の日本の道を不安なく走ることができ、高い信頼性と経済性、高性能を兼ね備えた二輪車を新たに開発するべきだと考えたのです。
そした何よりも重要だったのは、誰にでも乗ることができるイージーな操作性でした。
そんなコンセプトが、後に世界各国での大ヒットにつながっていくことになります。
初代スーパーカブは先端技術の結晶だった
エンジンは静粛性や経済性、信頼性を追求して空冷4ストロークOHVで開発されることになりました。
原付にしたのは、多くの人達に乗ってもらえることを考えたからです。
しかしこの排気量で4ストロークOHVは世界初。
おまけに目標とする馬力は、カブF号の1psに対して4倍の4ps。
悪路で大きな荷物を運ぶことを考え、当時の125ccクラス並のパワーが求められたのです。
クラッチ操作をしなくても乗れるように自動遠心クラッチも採用。踵でも操作できるよにシーソー式ペダルとなりました。
「蕎麦屋のオカモチが片手でも運転できるようにしろ」と本田宗一郎が言っていたのは有名な話です。
タイヤサイズは走破性や操縦性、乗り降りの容易さなどが考慮された結果、17インチが最適とされましたが、このサイズのタイヤは、当時の日本では使われていませんでした。
タイヤメーカーと交渉して、スーパーカブ専用のタイヤを開発してもらうことになりました。
レッグシールド(足をカバーする泥除け)などには、軽量なポリエチレンを量産車としてはじめて採用。
スカートを履いた女性でも簡単に乗り降りできるようにエンジンのシリンダーは横に寝かされ、車体は高強度なプレスバックボーンフレームを採用。
デザインは先進性があり、親しみやすく飽きがこないもの。
このように当時の先端技術を結集して、初代スーパーカブC100が形になっていきました。
ちなみに当時は車名に排気量をつけていなかったのでC100という名称であっても排気量は49ccです。
空前の大ヒットのカブ。
カブの進化や派生モデルも!
カブの伝統はまだまだ受け継がれています
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【文/後藤武(外部ライター)】